2011-10-24

私は何を書くのか? 何が書けるのか?(1)

先日のとあるIRCでのやりとりにより、
「果たして私は何が描きたいのか?」「何を読者に突きつけたいのか」「自分の中にあるものは何なのか」
という、ものを書く者の核となる部分について、再考を要する事とになった。
(この手の熟考はものを書く人間であるならば常に反芻していることではあるのだが)

結果(課題を抱え床に入り糸口を辿ってすぐに思い当たったのだから僥倖というか、はたまた「そこまでものが見えなくなっていたか」というか)たどり着いたのは、

私が求めていたのは「理屈」だった。
ということだった。

最初期に書いた、とある不幸な少女の話(このサイトには載せていない)も、先に「出自」と「結末」があり、その「結末」に至る理由が分からなかった(「腑に落ちなかった」)ために、自らの疑問に自ら解答を導くために書いたものだった。
成程、確かに。私の読書傾向としても、そして最も多く深く読みふけったアガサ・クリスティ女史や横溝正史氏の作品にも常に共通して現れる「被害者が何故死ななければならなかったのか」も、「理屈」なのだ。

さて。ここから執筆のベクトルを生み出すにはどうしたらいいか、等については、次の機会に。
本当に「理屈」だけなのかとか、「理屈」ももっと解体すれば更に細かい点にまでたどり着けるのではないか?などの疑問もあるので。

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